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ダラダラと活発たれ!!

メタルとか映画とか音楽とかいろいろ

尾崎豊は「わかって」やってる説。

尾崎豊と言えば、知らない人はいないくらい有名なロックシンガーだ。

盗んだバイクで走り出す、ってフレーズなんかもうネタにされすぎて何番煎じだって話なわけで。

もはや盗んだバイクはだいたい走り出してるんじゃない?ってくらいに。

イメージとしては、厨二病、という言葉が似合いすぎる男ってとこだろうか。

 

けど、アレは俺わかってやってると思うんですよ。

なぜならほんとに歌詞に書いたことしか考えてないなら「痛すぎる」から。

 

 

十代後半の若者なら誰もが向き合う苦悩や葛藤。

十五才くらいの頃の、周りの人間みんなバカに見えたり、大人ってだけで反抗したくなったりする。

その中で生きることの空虚さとか厳しさとか、どうしようもない悩みと向き合い悶々として、んで成長しそれらがどうでもよくなっていくのにも寂しさとかを覚えたりして…

誰もがくぐるこの季節を、人々は厨二病と呼んでどこか嘲笑するきらいがある。

 

 

彼の楽曲は、一貫して「大人になりたくない!!」と叫んでいるようだ。

この場合の大人になるってのは、上記の悩みを「社会の荒波」とかいう代物の中忘れていき、更には「ああいう頃もあったよね」と過去の自分を茶化す様になることだ。それに尾崎豊は徹底して「NO!」を突きつけようとした。

 

 

そのために彼は若者の身勝手で世間知らずの悩みを、敢えてそのまま取り出そうとしたのだと思う。

 

敢えて自分のことしか歌わなかったのも、楽曲からは他人の考えに耳を貸そうとする姿勢を徹底的に排除したのも。

彼にとって(多くの若者にとってそうであるように)、自分の悩みが全てで、他人には悩みが無いかのように振舞ったのも。

他の多くのロッカーがするように、「これがロックだ!!」などと言って自分を誤魔化したり正当化することすらしなかったのも、敢えてのことだったんじゃないのか?

そう思う。

 

だから、彼の曲には何らかの結論や答えもなかった。

その純粋さはもはや幼稚とも取れる。

 

 

だからこそ、彼は未だに人々に親しまれているのだと思う。

全ての芸術は、自らの苦悩を吐き出すこと。

そこには何らかの答えが、答えとまでは行かなくても、「自分は他の人間とは違ってこうなんだ!!」という意思表明が必ずと言っていいほど伴う。だからこそ、芸術は相手を選ぶ。

 だか、尾崎豊にはそれがない。

彼のメッセージは極めて無個性だ。

誰もが持ち、そして諦めた感情を、恐ろしく純粋に抽出することで、「尾崎豊」という異常者は普遍性を獲得した。

そこまでを彼が見越していたのかは知らないが。

 

誰よりも世間の矛盾感じ取り、それを嫌ったからこそ、彼は楽曲からも矛盾を排除してしまったのかもしれない。

そうだとすると、彼のやり方では彼の心は遂には救われなかっただろう。

彼の中の葛藤はとうに思春期の頃よりももっと深いものになっていたはず。

それを楽曲として吐き出すことすら拒否していたとすると…

それはあまりにも悲しい。

 

 

 

ふと思う。

年齢的にも大人になって、大人のバックバンドを従えて演奏している尾崎豊

熱狂する若者達の歓声を浴び、熱く歌い上げた尾崎豊

トランペットソロの間、彼は何を考えていたのだろうか?

 

そして今、彼の曲を街で耳にする僕らは、何を思えばいいのだろうか?

彼の叫びは、僕らを熱くするにはあまりにも浅く、冷めた目で見るにはあまりにも悲痛だ。

今夜も、彼の答えのない問いかけはまだ続いていることを思い知る。

答えは永遠に出ないと知りながら…

 

 

 

…まあアルバム1枚も持ってないんですけどねw

 

ケケケ

(終わり)